勝手な秋

選挙も終わり、一喜一憂の中つれづれなるままに書いてみようかと。
かといって選挙のことではないんだけどね。まぁ、言ってみればキーボードをパチパチしたかった程度のお話。
ワタシには写真を撮る趣味がありまして、それは婦女子を対象にしたものとは違い、単なる風景を撮っては満悦しているのです。それぞれの方が自分のいいように写真を撮られていますね。写真家と言われている人たちだって、テクニックの有無は兎も角も、特別なことをしているわけではなく、その瞬間にシャッターを押しただけです。
こういう話があります。
写真が発明されるずっと以前の話。絵画は写真そのものでした。写実主義にしろ、印象派にしろその瞬間を切り取りモノとしたのです。ところが写真機が発明され瞬間の風景があっというまにそのままの形で手にすることができるようになってしまい、絵画がそれまで保有していた意味合いが薄れてしまったわけです。そういう背景があってシュールレアリズムとなったりポップアートへと変貌していったわけです。
要は、昔も今もその瞬間を切り取りたい気持ちが存在し、何かしらの手法によって叶えていたわけですよ。
絵画はその作者の意図が色濃く反映されます。しかし、写真は撮影者の意図を濃くすればするほどにリアリズムがなくなってしまい、なんだこりゃ?ともなりがちでして、かといって意図がないものは面白くありません。
写真。特にワタシが撮っているような写真は、そのときに楽しむというよりも数年の後に楽しむものとして考えています。先日、みなとみらいで開催された「米国人の撮影した戦後の日本」というイベントを見てきました。それは面白かった。今昔の違いに、被写体の目線に、カメラマンのまなざしに感動しました。
それは単なる風景写真です。でも、その中に含まれているものは、タイムカプセルのように残り、見るものを楽しませ、想像させ、いろいろなものに思いを馳せることを欲求します。
よく芸術論などが交わされますが、芸術とは思いを馳せさせてくれるものではなかろうかと思うのです。人はそれぞれに記憶があり、思いがありますから、その芸術作品を媒体にして人の記憶や思いを活動させることが旨みなのではないでしょうか。
と、
つれづれなるままに書いてみたが、風景は一瞬たりとも同じことはなく、人の気持ちも常変わり続けているのでありますから、同じ風景だったようなものも目線を帰れば違ったものになるのです。露出やシャッタースピードなどは単なる方法論であって、写真の醍醐味はその目線がいかなるものかではないかな。
話はそれますがね、
最近の若者文化というべきか、萌え文化とでもいいましょうか、ワタシはそういうものの一切が理解できない。というよりも、そのパターン化したものに満足することに物足りなさを感ずるのですわ。こういうものが横行するということはそれほどに暇な人が増えたということか、暇でも食べていける環境が揃ったということなのでしょう。平和の側面ですね。
昔から人間世界で戦いがなくならないことに、平和であり続けることへの倦怠感があるのではないかと思います。確か、マヤの話では263年ごとに戦いがあり、そのひとつの文明は滅びるようなことがあるという話をきいたことあります。
人は変化を好みます。それは刺激を好むことに類似しています。刺激が薄くなれば次がほしくなります。いつかどこかで終止符を打たない限り突き進みます。その終止符をどこに打つか。それは個人の感性でしょうな。たぶん。
と、どうでもいいことを偉そうな語調で書いてみた。
まぁ、ひがな一日何もしないでいるのもいいもんだ。
さて、写真を撮りに行こうかな。。。。
あ、
もうだいぶ前からになるけれど、漫画雑誌の粗暴さに呆れている。絵も内容も、ワタシらが見ていた時代の夢や想像というよりも日常的で現実的で卑猥なものが横行している。これこそ、刺激を求める読者がいるからだろう。
ちょっと観ただけでも、その展開も、絵も想像できちゃう。何が面白いのだ?わけわからんな。